■旅日誌
[2009/11] ありがとうお座敷ほのぼのSUN-IN
(記:2009/12/20)
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主に山陰地区で活躍していたジョイフルトレイン・ほのぼのSUN-INがこの11月で引退するということで、最後の姿を見に行くことにしました。ディーゼル車のお座敷列車ですが、関東の人間にとっては馴染みがある列車ではありません。非電化区間向けのJTも老朽化が進みついに引退、最後に一般開放されたようです。週末だけで日程を収めるのが厳しかったので、今回は金曜夜に夜行で旅立つことにしましたが、2日目にはまた別のJT・みすゞ潮彩号に乗ってきました。
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 0日目
ルート概略
【寄ったところ、乗ったもの】※詳細はこちら
サンライズ出雲
土曜日のほのぼのSUN-INに乗ろうと、出発時間から逆算すると朝一の飛行機(出雲便)でも間に合わないことは簡単に分かってしまい、となると選択肢はもう限られてしまう。というわけで、夜行列車=サンライズ出雲に乗ることにしたのだが、そもそも金曜の夜に出発できるのか、まったく自信がなかった。午前中にはどうしても客先へ外出しなければならない用事があり、とりあえず午後休暇を宣言したものの、自席に戻ったあとも外せない会議がひとつ、それならあのミーティングもやってしまおう…なんて具合で踏ん切りつかず、頼まれごとやら電話やら次から次へ芋づる状態。気がつけば定時もはるかに過ぎた午後6時、、、いよいよ危うくなってきたところで、どうにか吹っ切るようにして家に向かい、慌てて準備して東京駅へ直行した。ところで、サンライズ出雲に乗るのは、おととしの夏以来これで3回目になるが、それだけ使い勝手のいい列車だと言えるのかもしれない。
サンライズ出雲
 1日目
ルート概略
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ありがとうほのぼのSUN-IN、三保三隅、萩
昨日の夜、多少空模様が気になっていたが、どうにか天気は大丈夫な様子だった。岡山までは定刻で来たものの、伯備線に入ってからは運転停車するたびに遅れが重なり、出雲市には15分くらい遅れて到着した。ちょうど中国山地を越えるあたりは紅葉のピークのようだったが、どうも天気はぱっとしない。米子を過ぎて宍道湖が見えてきた頃になると、ぱぁーっと日も差してきて、先の方できれいながお出迎えをしてくれた。出雲市に到着後、すぐにサンライズ出雲からほのぼのSUN-INへ乗り継ぐことになるのだが、山陰線伯備線の遅れのせいで、サンライズの回送引上げも抑止が掛かり、どうやらほのぼのSUN-INの入線も遅れているようだ。
ほのぼのSUN-IN
出発時刻を過ぎてから、ようやくほのぼのSUN-INが入ってきた。慌てて乗り込み、席に着くまもなく列車は動き出す。今日はこのまま三保三隅まで乗り通すことにしているのだが、所要時間は2時間半ほどの見込みだ。JR東日本あたりのJTと比べると多少狭苦しい感じはするが、初冬を思わせる日本海を見ながら、この先しばらくサンライズとも違ったお座敷列車のまったり時間を過ごすことになる。まだまだもったいないかな?という気もするが、細かいところに目をやると結構傷みはきてるし、足回りなどの経年劣化も避けきれないだろうから引退は致し方ないかもしれない。関東の人間にとっては、あまり馴染のない列車だったが、それでも引退と聞くと寂しいものだ。
ほのぼのSUN-IN
途中の上下交換などダイヤに余裕があったとみえ、ありがとうお座敷ほのぼのSUN-IN号は、いつの間にか遅れを挽回していた。終点の三保三隅にもほぼ定刻で到着したので、このあとも順調にいくことを祈りたい。ところで、この三保三隅駅だが、どうしても高校生のときに友人と旅したときのことを思い出してしまう。いまからもう何十年も前のこと、ある年の夏休みに、その友人に誘われそれまで経験のしたことのないスケールの旅に出ることになった。当時、夜行の鈍行列車(山陰号)で夜通し掛けて京都から出雲市まで乗り通し、何時間後かにはまた鈍行列車で下関まで乗り倒すという常識ではあり得ないスケジュールを組んでいた。見るからに年代ものの旧客に、そこまでして長時間乗り続ける客はもちろん他にはおらず、とんでもない距離をとんでもない時間かけて走破したのだが、列車の雰囲気も、目にする風景も、どれをとってもえらく刺激的(?)だったのは今でも鮮明に覚えている。当然ダイヤもすごいことになっていて、数少ない優等列車をやり過ごすのも大変、単なる上下交換と思いきや、平気で30分も40分も停車したりして、なかでもこの三保三隅駅には、周囲に何もないところで延々と待ってた記憶が強く残っている。その後も何度か山陰線に乗ってここを過ぎる機会はあったが、三保三隅に降り立ったのはそのとき以来で、とても懐かしい気分だった。
ほのぼのSUN-IN・三保三隅
ありがとうお座敷ほのぼのSUN-IN号は、土曜日に三保三隅へ来たあと、一旦途中まで折り返し、日曜に出雲市へ戻るダイヤが組まれていた。今日は三保三隅ほのぼのSUN-INとお別れして、さらに西を目指すことにしている。ここまでくると本線とは名ばかりのローカル線なわけだが、後続のスーパーおきでショートカットすると益田駅でさらにその先の普通列車へ乗り継げるスジがあり、いずれも数分の乗り換えと過疎ダイヤにしてはうまいこと見通しが立っていた。ところがところが、山陰線遅延の影響で、次のスーパーおきは20分以上遅れて走っており、そのため益田で乗り継げるはずだった普通列車との接続は、今日に限って放棄するとの案内が入る。予定を変更するにしても他に移動の手段はまったくなく、一気に3時間待ちという事態に陥る。さすがにこれには途方に暮れてしまい、駅員さんに申し出たところ、たまたま同じ境遇の憂目に遭った老夫婦がそこにいらっしゃって、どうやら東萩駅までタクシーによる振替え救済が検討されてるところだった。しばらくして同乗させてもらえることが決まったからよかったものの、ついてたのか、ついてなかったのか、複雑な気分だった。
三保三隅
タクシー振替えなんてもちろん初めての体験だったが、山陰線沿いの国道60キロ弱を1時間かけて移動、時折見える日本海は白波が立っており、これからやって来る冬を予感させる。ちなみに料金メーターは16000円まで上がっていたが、おかげで被害(?)は最小で済んだ。これなら、予定通り2時間ほど萩観光ができそうだ。には、以前も来たことがあったが、素通りしてしまったため、何か惜しいことをしてたような気がして、ぜひ再訪しようと考えてた場所である。そんなわけで今回はここで投宿することに決めてあった。
松陰神社
ここは、津和野と並んで山陰の小京都ととも呼ばれ、とても落ち着いた街である。また一方で、維新の里といったような呼び名もあり、随所に歴史の香りが漂い吉田松陰伊藤博文といった歴史を動かした人物にゆかりのある土地としても有名だ。時計を見ると3時を過ぎたあたりなので、日が落ちるまで時間はまだ残されている。東萩駅前にレンタサイクル屋があることを前もって調べておいたので、とりあえずそこまで向かってみよう。
萩
最初に松陰神社まで行ってみることにした。神社の中には、吉田松陰が実際に暮らしていたとされる建物も残されており、遠い昔の生活ぶりが偲ばれる。その後、街中を移動する途中にも武家屋敷跡など、昔の町並みのたたずまいを感じながら進んでいく。ところどころ史跡などをたどりながら、最後に萩城跡へ行ってみた。かつてのここに城があったことを思いながら想像する侘びしさもまた悪くない。自転車を借りた2時間は意外と短く、あっという間に過ぎてしまい返り道に少しだけ遠回りして、海の近くを通ってみた。秋の日はつるべ落とし…。沈みゆく夕陽と晩秋の風景がとても印象的だった。さて、今夜もうまもの探しをしなければいけないな…。
萩城跡
 2日目
ルート概略
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仙崎、みすゞ潮彩、下関、北九州空港
2日目は朝9時過ぎの列車で東萩から長門市へ、そして仙崎まで足を延ばす予定でいる。その後、青海島にでも行ってみようかと思っているのだが、下調べも何もしてないので正直どうしたらいいのか、きちんと予定を組み上げることができてなかった。なので、とりあえず観光船にでも乗ってみようと思い、すぐ来そうなバスを待って仙崎の港を目指すことにした。
山陰線
青海島は、長門市の北側、日本海に突き出た形の島である。きっと絶景スポットがあるに違いないと思うのだが、残念ながらどうすればいいのか、よく分かっていない。そんなわけで観光船を目指してやって来たのはいいのだが、今日は外海で波が高くの周りを1周するコースは出航できないとのことだった。もともと欠航することが多いというのは後で知ったのだが、この時期でももう冬場の西風が強いようである。そんなときでも、島影にあたる大島コースが代替コースとして案内されており、ここから引き返して青海島に向かうのは時間的にムリなので、とりあえずそのに乗ってみることにした。どんななのか見てみると、2、30人乗りのちっちゃなで、船首にある入口から乗り込み、お客さんの数によって何艘かに分かれて出帆するようになっていた。仙崎港を出たあとも、しばらくは海岸沿いに進んで行き、徐々に人が住んでるような感じではなくなる。、北上するにつれ断崖絶壁と岩場が続いていたがていたが続くようになった。最後にちょっとだけ外海に向かってチャレンジする素振りをみせたが、とたんには前後上下に大きく揺れ出し、このうねりじゃ絶対にダメだということはすぐ分かった。(余談:波照間島へ渡る高速船ならこんなのへっちゃらかも?)そこからは折り返すような形で東に進路を変え、大島周辺の景色を眺めていくことになった。波に削られてできた洞穴や、こんな天気でも釣りに出てる人、もう少しが穏やかだったら透き通って見える砂浜など、まぁそれなりに楽しませてはもらった。
青海島
ところで、仙崎といえば金子みすゞの町として紹介されることがある。金子みすゞの人となりについては、あえてここで解説する必要もないけど、明治から大正を生きた童謡詩人で、最近注目される機会も多くなったように思う。いまでこそその活躍ぶりが明らかになってきているが、きら星のように登場したものの薄幸のまま短い生涯を閉じ、長い間その存在は忘れられていた。ところが、ある人物の執念ともいえる努力のおかげで再び脚光を浴びることとなり、いまもこうして金子みすゞの世界に触れられるようになった。その詩の内容はどこか人を惹きつけるものがあり、国語の教科書にも取り上げられていて、なんと中国でも紹介されたこともあるらしい。前回仙崎に来たときは、そのみすゞの名前が付いた通りを何となく歩くだけで何もしなかったが、今回は金子みすゞ記念館に立ち寄ってみることができた。人物像だけでなく、その時代背景も知ることができるので、ここも来る価値のある場所といっていいだろう。
みすゞ潮彩
2日目の後半はみすゞ潮彩号に乗車することにしてあった。この列車仙崎下関を結んでいて、今日は上りの始発駅仙崎から下関へ乗り通すことにしている。仙崎長門市間は、山陰本線支線という肩書きが付いているものの、いわゆるどんずまりの盲腸線で、乗りつぶし泣かせの場所だったりする。前回も苦労してやって来た記憶があり、JTが乗り入れるようになったのはちょっと意外な感じもしている。というわけで、昨日から新旧JTのハシゴとなった。
みすゞ潮彩
みすゞ潮彩はその名の通り金子みすゞを意識したもので、生誕の地である仙崎から、後の生活の場となる下関を結んでいる。途中、日本海に面したところを行くこともあって、眺めのいいポイント3ヶ所でサービス停車してくれる。2両編成のうち全席指定の1両は座席が海側へ向けて大胆に配置されていて、窓も四角だけじゃなくアールデコ調の外装もカラフルでなかなか目を引く。売店もあってアテンダントが乗車しており、それなりにサービスレベルが確保されていた。(余談:ですが、今回乗った上り=仙崎→下関では、名物のお弁当が売り切れていました。もう少し気を利かしてもよかったのでは??)今回は高杉晋作の紙芝居が生演奏(?)されていたが、イベント性のある列車でもある。ちなみにもう1両は普通の自由席で、普段の地元の足としても機能していた。
みすゞ潮彩からの眺め
みすゞ潮彩号はやがて下関へ到着、下関まで来たので、再び東京へ戻るには山口宇部の利用が妥当なところかもしれないが、ここまで来れたとやっぱりスターフライヤーに乗りたくなってしまい、北九州空港へまわることにした。下関での乗り継ぎも数分しか余裕をみてなかったので、みすゞ潮彩号を見送ることもなく、次の普通電車へ乗り換えるようになった。数分ちょいで関門トンネルを抜け九州へ上陸、門司駅を出れば小倉駅まではあとわずか、さらにもう一度乗り換て先へ進む。
JR山陽本線・下関
多少、ひねくれモードで小倉から空港へ直行するリムジンバスには乗らず、列車と路線バスを乗り継いで空港まで行くことにしている。列車は何事もなかったかのように快走、旧北九州空港のとき利用した下曽根駅のひとつ先、朽網駅まで向かった。少しは何かあるだろう…と思っていたが、駅前には本当に何もなく、これから開発が行われるのか少々心配にもなった。ここでバスに乗ったのもわずかに3名と寂しいものだった。今回もスターフライヤーを利用と思い、少し遠くの北九州空港まできてしまったが、どうもSFJの戦略にのってしまってるのかもしれない。まぁ、それもよしとするか…。今回2つのJTに乗ったが、去っていくものこれからの活躍が期待されるものとで、その印象はとても対照的だった。
北九州空港