■旅日誌
[1989/7] 中国地方ローカル線の旅・その2
(記:2000/5/15 改:2022/1/3)
(記:2000/5/15 改:2022/1/3)

前回は後味悪く終わってしまったので、何となくもう一度回ってみることにしました。とはいうものの同じところ辿っても仕方ないのでルートはちょっと工夫してみます。
0日目
前回は後半で体調を崩して散々だったが、別にリベンジというわけではないが同じ列車でスタートを切ることにした。今回も臨時夜行の銀河で大阪を目指す。寝台ではなくただの座席指定なので、かなりの安上がりになる。(後日談:GWやお盆時期に設定されていたと思いますが、長距離バスの充実や"ながら"の実質"昇格"なども影響しているのでしょうか?いつの間にか姿を消していました。その後、定期便の銀河も引退、それどころか"ながら"も臨時列車に降格と、夜行列車の斜陽には歯止めがかからないようです。最後に銀河に乗ったときの旅日誌はこちらをご覧ください。)前回よりも乗ってる人が少ないようだが、車掌に申し出てちょっと広い場所へ移動する。浅い眠りの中、体の向きをちょっと変えるくらいしながら過ごす。
1日目
日曜の大阪駅はそれほど混んでなかった。今日は山陽線に沿ってひたすら西へ移動する。まずは新快速で行けるところまで行く。ということで網干までやって来たが、乗り継ごうとしていた普通列車は手前の姫路始発だったため、とても混雑していて席を確保するどころではなかった。ちょっと後悔する。そのうち席に余裕が出てきたのでよしとするが、立ちっぱなしで何時間なんてことにはならないように注意したい。岡山でもう一度乗り換える。幹線とはいえ都市部を離れればローカル線みたいなものなので、編成は短くなる。倉敷、尾道などちょっと途中下車したくなるところも増えてくる。
とりあえず三原で一旦山陽線から離れ、呉線に乗り換える。呉線の高架は瀬戸内海に向かって延びていた。呉線に乗るのはもちろん初めてではあるが、景色いい場所を海沿いを行く路線である。山陽線のように高規格ではないので、カタコトとレールの継ぎ目音をテンポよく刻んで進んでいく。呉の町といえば港や造船が想像され、とりわけ軍港のイメージが強い。古い友人に出身が呉だったのがいたおかげで、この町について話を聞いた機会は少なくない。
呉線から山陽線に戻り宮島近辺を通過し岩国へ抜ける。再び山陽線から離れて岩徳線に乗り換える。地図を見ると海沿いから離れて山間をショートカットしているのが分かる。そのため距離も短く、通しの運賃計算は山陽線を利用してもこちらの距離で計算される。また、山陽新幹線も意外と近いところを走っており、時折車窓から見てとれる。だが実際には古びたキハがぽつぽつと出ている程度で、まったくローカル線と言ってもいい。岩国駅でキハが佇む風景はちょっと意外な印象を受ける。岩徳線は山間を行くのでトンネルや勾配が多い。特に下り勾配のトンネルでは、加速のついた車両とレールの摩擦音が車内中に激しく響いていた。(後日談:その後、岩徳線に乗る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
徳山でみたび山陽線に戻る。当たり前だが新幹線を利用すれば移動は楽にできるところを随分と時間をかけてやって来た。徳山を出たところで夕日が眩しく感じるので、ほぼ1日かかったことになる。今日は小郡で一泊する。駅前にとった宿の部屋からは新幹線口の様子がよく見える。だが、オレンジ色の街灯が煌々と輝いているだけで、人通りは少なくひっそりとしていた。(後日談:いつしか小郡駅は名前が変わってしまいましたが、新山口というのもどことなく味気なく思えてしまうのは自分だけでしょうか?)
とりあえず三原で一旦山陽線から離れ、呉線に乗り換える。呉線の高架は瀬戸内海に向かって延びていた。呉線に乗るのはもちろん初めてではあるが、景色いい場所を海沿いを行く路線である。山陽線のように高規格ではないので、カタコトとレールの継ぎ目音をテンポよく刻んで進んでいく。呉の町といえば港や造船が想像され、とりわけ軍港のイメージが強い。古い友人に出身が呉だったのがいたおかげで、この町について話を聞いた機会は少なくない。
呉線から山陽線に戻り宮島近辺を通過し岩国へ抜ける。再び山陽線から離れて岩徳線に乗り換える。地図を見ると海沿いから離れて山間をショートカットしているのが分かる。そのため距離も短く、通しの運賃計算は山陽線を利用してもこちらの距離で計算される。また、山陽新幹線も意外と近いところを走っており、時折車窓から見てとれる。だが実際には古びたキハがぽつぽつと出ている程度で、まったくローカル線と言ってもいい。岩国駅でキハが佇む風景はちょっと意外な印象を受ける。岩徳線は山間を行くのでトンネルや勾配が多い。特に下り勾配のトンネルでは、加速のついた車両とレールの摩擦音が車内中に激しく響いていた。(後日談:その後、岩徳線に乗る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
徳山でみたび山陽線に戻る。当たり前だが新幹線を利用すれば移動は楽にできるところを随分と時間をかけてやって来た。徳山を出たところで夕日が眩しく感じるので、ほぼ1日かかったことになる。今日は小郡で一泊する。駅前にとった宿の部屋からは新幹線口の様子がよく見える。だが、オレンジ色の街灯が煌々と輝いているだけで、人通りは少なくひっそりとしていた。(後日談:いつしか小郡駅は名前が変わってしまいましたが、新山口というのもどことなく味気なく思えてしまうのは自分だけでしょうか?)
2日目
今朝も夏真っ盛りといった感じで気温はジリジリと上がっていた。それでもどこかカラッとしているので、ジメジメとした不快感は少ない。今日は山口線から始めることにする。かなり日差しが強いので東側の席を避けることにする。旅慣れてきてからというものの、進行方向のどちら側の席につくかは事前に地図を見て決めたりすることが多くなったが、天気が良過ぎるときは日差しを避けた方が無難である。山口市が山口県の県庁所在地だということは誰もが知っていることだが、決して交通の便がいいとは言えない。だが、西の小京都などと例えられるように、観光をするのにはなかなかいい土地でもある。だからと言って今日はそんな話とはまったく関係はないのだが、山口線は車窓の美しさもなかなか評価が高い。復活したSLを走らせるようになってから久しいが、とても絵になる路線である。(後日談:SLやまぐちに乗車したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
山口線を乗り通して益田駅で山陰線へ乗り継ぐ。ホームの目の前に広がるだだっ広い空き地はかつてこの駅がとても賑やかだった証拠であろう。さらに客車の普通列車というのも雰囲気を盛り上げてくれる。(笑) 窓を開け放ちそこから入ってくる外気は、時折ディーゼル機関車の排気の臭いも感じられる。上下交換など時間調整のため長時間の停車もあり、実にのんびりペースで進んでいく。そうか、高校生のとき友人と一緒に旅したときとまったく変わってないな…などと、ちょっと昔のことを思い出していた。
江津からは三江線で中国山地越えに臨む。まっすぐ南下はせずしばらくは蛇行する江の川に沿って進むため、結構な距離を行くことになる。この路線の沿線も人口の少ないところが多いので、まさに山深いところへ分け入る感じで進んでいく。しばらく行くと直線的な新しく開通した区間に差し掛かり、ちょっと不思議な感じがする。(後日談:三江線へ再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
三次へ抜けるとあとは芸備線で広島方面を目指す。山間の夕暮れは早く、先に進むにつれ暗くなってくる。タイミングよく急行列車でそのまま広島へ向かう。今日の宿は駅に直結しており、これ以上都合のいい場所はない。(後日談:広島駅も大きく改築されてしまいましたので、そのときの姿は微塵も感じられません。)
山口線を乗り通して益田駅で山陰線へ乗り継ぐ。ホームの目の前に広がるだだっ広い空き地はかつてこの駅がとても賑やかだった証拠であろう。さらに客車の普通列車というのも雰囲気を盛り上げてくれる。(笑) 窓を開け放ちそこから入ってくる外気は、時折ディーゼル機関車の排気の臭いも感じられる。上下交換など時間調整のため長時間の停車もあり、実にのんびりペースで進んでいく。そうか、高校生のとき友人と一緒に旅したときとまったく変わってないな…などと、ちょっと昔のことを思い出していた。
江津からは三江線で中国山地越えに臨む。まっすぐ南下はせずしばらくは蛇行する江の川に沿って進むため、結構な距離を行くことになる。この路線の沿線も人口の少ないところが多いので、まさに山深いところへ分け入る感じで進んでいく。しばらく行くと直線的な新しく開通した区間に差し掛かり、ちょっと不思議な感じがする。(後日談:三江線へ再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
三次へ抜けるとあとは芸備線で広島方面を目指す。山間の夕暮れは早く、先に進むにつれ暗くなってくる。タイミングよく急行列車でそのまま広島へ向かう。今日の宿は駅に直結しており、これ以上都合のいい場所はない。(後日談:広島駅も大きく改築されてしまいましたので、そのときの姿は微塵も感じられません。)
3日目
今回の行程は"陰陽"を行ったり来たりしているが、今日は昨日と逆向きに日本海側へ抜けることにしている。まずは山陽線で福山へ出る。この区間はかつての難所であり左右に大きく振られるカーブが多く、ゴーゴーと車輪を軋ませながら列車は進んでいく。福山駅は新幹線との乗り換え駅でもあり、高架で立派なつくりをしている。駅の北側に目をやると福山城の天守閣が視界に入ってくる。ここで乗り換える福塩線は途中まで電化されており、区間便が比較的多く出ている。地方線用の電車はロングシートで味気ないが、まずはこいつで府中まで行くことになる。電化されているのはここまでなので、乗り換えが必要となる。本数もぐっと減るため、既に席はまんべんなく埋まっていた。とりあえず空いてるところに座って発車を待つ。
出発するとすぐに大きな工場を右手に見てカーブを切り、気がつけば山越えのところへと入っていくことになる。中国山地を行ったり来たりしているのでどこも似ていると言ってしまえばそれまでだが、車窓は寂しい山奥の風景へと変わっていく。やがて開けたところへ出てくると、終点の塩町が近づいてきたことになる。ここから少しばかり移動し、備後落合からは木次線で日本海側へ抜けることにする。
大げさにいうと木次線は今回の旅のクライマックスかもしれない。備後落合は前回も立ち寄ったので記憶に新しい。山間の寂しい駅にしては珍しく駅売りの姿が見て取れる。(後日談:今ではそれもなくなってしまったようですね。)ちょっと小腹が空いてきたし、次の乗り換えまでの待ち時間を潰すためにも腹の足しになりそうなものを買うことにする。かつては陰陽連絡の要所であったように備後落合はちょっとしたターミナル駅の様相だ。前回の乗り残しでもある木次線は一番本数も少なくひっそりとしとしている路線である。ようやくやってきた便に乗り込み発車を待つ。駅を出て右にカーブを切ると本当にその先へ行けるのかと思うくらい寂しい感じがする。木次線は地味ではあるが、見所は多い路線でもある。出雲坂根のスイッチバックや奥出雲おろちループ、「砂の器」で有名になった亀嵩など枚挙に暇がない。わずか3人を乗せて備後落合を出た後、それ程でもないところに三段式のスイッチバックがある。ワンマン運転なので運転手が行ったり来たりしていた。出雲坂根の構内にある湧き水もまた有名で、実際、車でやってきて水を汲んでく人も多くいた。停車時間はわずかなので近づくこともできなかったが、できれば時間をかけて立ち寄りたい場所でもある。ガスが立ち込めるなか何の前触れもなく奥出雲おろちループが見えてきた。国道314号が高低差を克服するために設けられたものだが、こんな山奥に場違いに立派なものがあるのも何だか妙である。亀嵩駅でも途中下車する余裕はないので、列車内から様子をうかがうだけだったが、駅そばを買い求める人など、ここもそれなりの人の集まりができていた。それとなく開けた景色となってきたところが木次の町で、人里へ出てきた感がする。ここからは徐々に乗ってくる人も増え、やがて終点の宍道駅へとたどりつく。たまたま乗り合わせたのはこのまま山陰線へ入って松江まで直通する便だったが、時間調整のためしばらく停車することになる。(後日談:木次線へ再訪したときの旅日誌はこちらとこちらをご覧ください。)
木次線の余韻に浸りながらしばらく宍道湖のほとりを歩くことにした。松江駅から一畑電鉄の駅まではちょっと離れたところにある。その松江温泉駅は実に古めかしい木造の駅であった。(後日談:今では見る影もないですが、そのときの印象は強烈に残っています。)出雲行きの電車もこれまた古びた木造のもので、窓なんて開きそうにもない。独特の油の臭いはタイムスリップしたような不思議な気分になる。宍道湖のほとりを吊り掛け音を響かせこの古い車両はまさに疾走していた。一畑口で進行方向が逆になり、終着の出雲駅へとやってきた。(後日談:その後、一畑薬師を訪問する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
今晩は車中泊にしていたが、もうしばらく間があるので何かして時間をつぶさなければならない。既に暗くなってしまったが、大社線で出雲大社を往復しておく。(後日談:その後、大社線は廃止されてしまいました。立派な出雲大社駅へ立ち寄ったのもこれが最後となってしまいました。出雲大社駅へ再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
ひとしきり時間潰ししたあとで、急行だいせんの入線を待つ。どれ程の人が利用するのかよく分からないが、ちょっと早めに並んでおくことにした。結果的にはワンボックスに一人程度といった感じだった。なかなか寝つくことはできなかったが、自ずと高校のときの旅のことを思い出していた。
出発するとすぐに大きな工場を右手に見てカーブを切り、気がつけば山越えのところへと入っていくことになる。中国山地を行ったり来たりしているのでどこも似ていると言ってしまえばそれまでだが、車窓は寂しい山奥の風景へと変わっていく。やがて開けたところへ出てくると、終点の塩町が近づいてきたことになる。ここから少しばかり移動し、備後落合からは木次線で日本海側へ抜けることにする。
大げさにいうと木次線は今回の旅のクライマックスかもしれない。備後落合は前回も立ち寄ったので記憶に新しい。山間の寂しい駅にしては珍しく駅売りの姿が見て取れる。(後日談:今ではそれもなくなってしまったようですね。)ちょっと小腹が空いてきたし、次の乗り換えまでの待ち時間を潰すためにも腹の足しになりそうなものを買うことにする。かつては陰陽連絡の要所であったように備後落合はちょっとしたターミナル駅の様相だ。前回の乗り残しでもある木次線は一番本数も少なくひっそりとしとしている路線である。ようやくやってきた便に乗り込み発車を待つ。駅を出て右にカーブを切ると本当にその先へ行けるのかと思うくらい寂しい感じがする。木次線は地味ではあるが、見所は多い路線でもある。出雲坂根のスイッチバックや奥出雲おろちループ、「砂の器」で有名になった亀嵩など枚挙に暇がない。わずか3人を乗せて備後落合を出た後、それ程でもないところに三段式のスイッチバックがある。ワンマン運転なので運転手が行ったり来たりしていた。出雲坂根の構内にある湧き水もまた有名で、実際、車でやってきて水を汲んでく人も多くいた。停車時間はわずかなので近づくこともできなかったが、できれば時間をかけて立ち寄りたい場所でもある。ガスが立ち込めるなか何の前触れもなく奥出雲おろちループが見えてきた。国道314号が高低差を克服するために設けられたものだが、こんな山奥に場違いに立派なものがあるのも何だか妙である。亀嵩駅でも途中下車する余裕はないので、列車内から様子をうかがうだけだったが、駅そばを買い求める人など、ここもそれなりの人の集まりができていた。それとなく開けた景色となってきたところが木次の町で、人里へ出てきた感がする。ここからは徐々に乗ってくる人も増え、やがて終点の宍道駅へとたどりつく。たまたま乗り合わせたのはこのまま山陰線へ入って松江まで直通する便だったが、時間調整のためしばらく停車することになる。(後日談:木次線へ再訪したときの旅日誌はこちらとこちらをご覧ください。)
木次線の余韻に浸りながらしばらく宍道湖のほとりを歩くことにした。松江駅から一畑電鉄の駅まではちょっと離れたところにある。その松江温泉駅は実に古めかしい木造の駅であった。(後日談:今では見る影もないですが、そのときの印象は強烈に残っています。)出雲行きの電車もこれまた古びた木造のもので、窓なんて開きそうにもない。独特の油の臭いはタイムスリップしたような不思議な気分になる。宍道湖のほとりを吊り掛け音を響かせこの古い車両はまさに疾走していた。一畑口で進行方向が逆になり、終着の出雲駅へとやってきた。(後日談:その後、一畑薬師を訪問する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
今晩は車中泊にしていたが、もうしばらく間があるので何かして時間をつぶさなければならない。既に暗くなってしまったが、大社線で出雲大社を往復しておく。(後日談:その後、大社線は廃止されてしまいました。立派な出雲大社駅へ立ち寄ったのもこれが最後となってしまいました。出雲大社駅へ再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
ひとしきり時間潰ししたあとで、急行だいせんの入線を待つ。どれ程の人が利用するのかよく分からないが、ちょっと早めに並んでおくことにした。結果的にはワンボックスに一人程度といった感じだった。なかなか寝つくことはできなかったが、自ずと高校のときの旅のことを思い出していた。
4日目
白々としてきて意識がだんだんはっきりしてきたときには列車は止まっていた。面倒なんでそのまま体は動かさないでいたが、それにしてもこんなに長時間止まっているのもちょっとおかしい気がする。どれどれ?と体を動かし周囲の様子をうかがうと何かアクシデントがあったようで、まだしばらく停車するとのアナウンスがあった。福知山線に入るための機関車に故障があったとのことで、代替機の準備に手間取っていることが分かった。結局1時間ほど遅れが出たらしいが、今日の行程はあまりシビアに考えてなかったので適当にアレンジを入れることにした。これが日に1、2本しかないようなところを狙ってスケジュールを組んでいたらかなりやばいことになっていたかもしれない。
ようやく大阪へ到着したときも遅れを挽回できていなかった。何となく片町線にでも寄ってみるかな?と考えていたのだが、時間が読めなくなってきたのでやめることにした。最初から新幹線を利用することは考えてなかったので、とりあえず東海道線を乗り継いで東へ進むことにしよう。
ようやく大阪へ到着したときも遅れを挽回できていなかった。何となく片町線にでも寄ってみるかな?と考えていたのだが、時間が読めなくなってきたのでやめることにした。最初から新幹線を利用することは考えてなかったので、とりあえず東海道線を乗り継いで東へ進むことにしよう。