■旅日誌
[1998/9] 最後の全国行脚・信州/北陸編
(記:2003/2/13 改:2010/3/27)
(記:2003/2/13 改:2010/3/27)

いきなりですが、台風がやってきてしまいました。天気予報によると本州上陸は確実でそれも東海地方~関東直撃の可能性大とのことで急遽日程を前倒しして出発することにしました。折角日程を調整したのに、出だしで狂うと後の日程がつらくなるので無理にでも長野にいることが大事と判断したわけです。
1日目
残念ながら天気予報は大きく外れそうもなかった。台風がこちらに向かって一直線でやってくる。この分だと初日の明け方か午前中くらいに直撃になる。すごく迷ったが、びっしり組んだ予定をリスケジュールするのははっきり言ってやりたくなかった。長野入りのタイミングで足止めをくらう可能性が大きかったので、そうであれば先乗りしてしまえば何とかなると考えた。そうと決まれば、前向きに考えて攻めに転じる。(謎)
そういえば長野の私鉄って乗ったことがあるのかないのか、よく分からなくなっていたところがある。であれば、今回片付けてしまおうと思った。まずは長野新幹線で上田まで直行し、上田交通を終点まで往復する。東京駅で列の前に並んでいたのは黒のフォーマルの洋装の家族連れだったが、沈んだ様子もないので休日を利用して田舎の法事か何かに行くのであろうか。それにしても身軽だな、と思ったら熊谷で降りてしまった。う~んリッチなのかな?と考えてる自分はやっぱり貧乏性だ。新幹線の着席率は意外と高く、よーく探さないと空いてる席が見つからない。
上田駅の印象はすっかり変わっていた。そりゃそうだろう、前に来たことがあるといっても十年以上も前のことだし、新幹線が開通したので作り替えられていて当り前だ。上田交通のホームも高架になっていた。ただ、車両自体はほとんど東急時代の原型のままだった。"のれん街"などと入った古びたつり革をみると妙な懐かしさに思わず苦笑してしまいそうになる。こんどはもっと時間をとって別所温泉のようなところでひと休みしたいものだ。
いまさらここで説明するまでもないが、新幹線と引換えに並行在来線の経営が引き剥がされ、地元が引き取り第三セクターの形で運行されているのがしなの鉄道だ。いわゆる上下分離方式というやつで、日本で初めてのケースだが今後は基本的にこの方向でいくという。(後日談:東北新幹線の八戸伸張のときにも同じ方式がとられましたね。)実際には、設備や車両はほとんどJRのものを引継いでいるのだが、運賃はだけは妙に高くなって跳ね返ってきたようだ。しなの鉄道で上田から屋代へ移動する。
長野電鉄を今日と明日に分けて乗り通そうと考えていた。河東線の次の便までかなり時間があったので屋代駅前を見回して昼飯が食べられそうなところを探す。居酒屋のような小料理屋のような大きな座敷のお店が空いてたので入ることにした。先客が2人ほどいたが、がらーんとしてとても寂しい。変な言い方だが、都会とは何か違う世界を感じる。地のもの堪能するといったお店ではなかったが、とりあえずゆっくり座ってお昼を済ませた。再び屋代駅に戻ってみたものの、人の姿というのがまったくない。駅の構えは立派なのに、はたしてこんなものなのだろうか?最初気がつかなかったが、長年営団日比谷線の主力車種だった通称「まっこうくじら」が原型に近い形で目の前に現れた。こいつにも随分とお世話になってのでとても懐かしい。わずかばかりの乗客を乗せ、屋代を発車した。往年の走りは健在だ。こうして運用についてる姿はなんとも嬉しいものだ。須崎で長野線に乗り換えるが、気がつけばほとんど同じ車種が走りまわっていた。信州中野から木島に行くか湯田中にするか迷ったが、両方一度は無理と判断し木島方面へ抜けることにした。ここからは、本数もぐっと少なくなってしまう。(後日談:残念ながら木島線は惜しまれつつ廃止されてしまいましたね。)
木島駅のつくりはしっかりしており、かつては無人駅ではなかったようだ。なかなか雰囲気のある駅だななどと感心していたら、飯山方面へのバスがちょうど出て行ってしまった。歩けないこともなかろうと思い、歩いてみることにした。こちらから見ると川の向こう側が飯山市街になる。信濃川の川幅はここでもかなり広く、橋を歩いて渡る人などまずいように思えた。どれほど時間がかかった分からないが、飯山駅には迷わず着くことができた。決して本数は多いとはいえないが、既に次の便を待ってる人が結構いる。飯山線も区間便が設定されており、東でよくみる新鋭のキハが入ってきた。立っている人もいたが、信濃川を遠くに確認しながら長野までやってきた。いつかかってきたか分からないが、携帯に留守電が入っており折り返すが返答がないので無視する。用があればまたかけてくるだろう。長野駅で降りて近くを歩きまわってみる。長野オリンピックの表彰式が行われた場所などを確認しつつ、気がつけば善光寺のあたりまで来てしまった。そうだ、もう新そばの時期かもしれない。ちょっと物色してみることにしよう。(後日談:その後、あらためて善光寺参りに来たときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
そういえば長野の私鉄って乗ったことがあるのかないのか、よく分からなくなっていたところがある。であれば、今回片付けてしまおうと思った。まずは長野新幹線で上田まで直行し、上田交通を終点まで往復する。東京駅で列の前に並んでいたのは黒のフォーマルの洋装の家族連れだったが、沈んだ様子もないので休日を利用して田舎の法事か何かに行くのであろうか。それにしても身軽だな、と思ったら熊谷で降りてしまった。う~んリッチなのかな?と考えてる自分はやっぱり貧乏性だ。新幹線の着席率は意外と高く、よーく探さないと空いてる席が見つからない。
上田駅の印象はすっかり変わっていた。そりゃそうだろう、前に来たことがあるといっても十年以上も前のことだし、新幹線が開通したので作り替えられていて当り前だ。上田交通のホームも高架になっていた。ただ、車両自体はほとんど東急時代の原型のままだった。"のれん街"などと入った古びたつり革をみると妙な懐かしさに思わず苦笑してしまいそうになる。こんどはもっと時間をとって別所温泉のようなところでひと休みしたいものだ。
いまさらここで説明するまでもないが、新幹線と引換えに並行在来線の経営が引き剥がされ、地元が引き取り第三セクターの形で運行されているのがしなの鉄道だ。いわゆる上下分離方式というやつで、日本で初めてのケースだが今後は基本的にこの方向でいくという。(後日談:東北新幹線の八戸伸張のときにも同じ方式がとられましたね。)実際には、設備や車両はほとんどJRのものを引継いでいるのだが、運賃はだけは妙に高くなって跳ね返ってきたようだ。しなの鉄道で上田から屋代へ移動する。
長野電鉄を今日と明日に分けて乗り通そうと考えていた。河東線の次の便までかなり時間があったので屋代駅前を見回して昼飯が食べられそうなところを探す。居酒屋のような小料理屋のような大きな座敷のお店が空いてたので入ることにした。先客が2人ほどいたが、がらーんとしてとても寂しい。変な言い方だが、都会とは何か違う世界を感じる。地のもの堪能するといったお店ではなかったが、とりあえずゆっくり座ってお昼を済ませた。再び屋代駅に戻ってみたものの、人の姿というのがまったくない。駅の構えは立派なのに、はたしてこんなものなのだろうか?最初気がつかなかったが、長年営団日比谷線の主力車種だった通称「まっこうくじら」が原型に近い形で目の前に現れた。こいつにも随分とお世話になってのでとても懐かしい。わずかばかりの乗客を乗せ、屋代を発車した。往年の走りは健在だ。こうして運用についてる姿はなんとも嬉しいものだ。須崎で長野線に乗り換えるが、気がつけばほとんど同じ車種が走りまわっていた。信州中野から木島に行くか湯田中にするか迷ったが、両方一度は無理と判断し木島方面へ抜けることにした。ここからは、本数もぐっと少なくなってしまう。(後日談:残念ながら木島線は惜しまれつつ廃止されてしまいましたね。)
木島駅のつくりはしっかりしており、かつては無人駅ではなかったようだ。なかなか雰囲気のある駅だななどと感心していたら、飯山方面へのバスがちょうど出て行ってしまった。歩けないこともなかろうと思い、歩いてみることにした。こちらから見ると川の向こう側が飯山市街になる。信濃川の川幅はここでもかなり広く、橋を歩いて渡る人などまずいように思えた。どれほど時間がかかった分からないが、飯山駅には迷わず着くことができた。決して本数は多いとはいえないが、既に次の便を待ってる人が結構いる。飯山線も区間便が設定されており、東でよくみる新鋭のキハが入ってきた。立っている人もいたが、信濃川を遠くに確認しながら長野までやってきた。いつかかってきたか分からないが、携帯に留守電が入っており折り返すが返答がないので無視する。用があればまたかけてくるだろう。長野駅で降りて近くを歩きまわってみる。長野オリンピックの表彰式が行われた場所などを確認しつつ、気がつけば善光寺のあたりまで来てしまった。そうだ、もう新そばの時期かもしれない。ちょっと物色してみることにしよう。(後日談:その後、あらためて善光寺参りに来たときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
2日目
別に心配しても仕方のないことだが、深い眠りにつくことはできなかった。テレビを見ても台風が近づいていることを繰返し繰返し伝えている。首都圏では通勤の足に影響が出そうだ。中央本線のあずさは早々と運転見合わせの判断が出ている。長野でも既に激しく雨が降っていた。ホテルで朝食を済ませ、まず会社に一報を入れてみた。まったく人が来れてないということはないみたいだったが、こちらは前乗りしたのでこのまま松本へ向かうことを告げた。続けて松本の拠点にも連絡を取り、予定通り午後一でそちらに入ることを伝える。この頃には、様子見だった長野新幹線も運転中止となっていた。ホテルから長野駅までは1キロもないと思うが、タクシーを利用することにした。歩けないほど風が強いというわけでもなかったが、たたきつける雨は激しさを増していた。
長野駅へ入ってみてJRの運行状況を確認する。長野近辺の在来線はごくごく普段通り動いてる感じはした。こんな状況だが、長野電鉄で昨日の乗り残してあったところがどんなものか様子を見てみたくなる。こちらも平常通りとのことなので、えいやぁ的に湯田中往復を試みる。ちょうど特急が出るところだったので、そいつで往復することにした。地上の交通事情に配慮するためかどうか分からないが、長電の長野駅は地下にあり、2つ、3つ先の駅までは地下鉄のような感じだ。そんな中、旧営団車が行き来するのは、何の因果だろうか。長野駅にずらっとならんだ"まっこうくじら"は往年の姿を彷彿させる。だが、特急列車には違う車種が当たっている。定刻通り長野駅を発車し、地上に出てみるとやっぱり雨はしっかりと降っていた。途中信濃川にかかった橋を渡る。ところどころ激流の様相を見せている。雲が風に激しく流されているので、もしかしたら天気は急速に回復するかもしれない。時折激しく打ちうける雨の中、列車は遅れることなく先へ進んでいった。信州中野で昨日向かった木島線と分かれ湯田中へ向う。急に勾配がきつくなった感じがした。普段は小川のようなところでも水の流れを集めて溢れ返っている。終点の湯田中に到着した。と、思ったらスイッチバックしてホームに入る。ここも勾配がきついようだ。一旦改札の外に出てみると、折り返し上りになる便を待ってる客で駅は賑わっていた。一応これで乗り終えたことになるが、動いてるうちに戻ることにしよう。(後日談:その後、長野電鉄に再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
予想通りと言っていいのか、天気は急速に回復してきた。時折薄日も差している。東京を発ってないのだから長距離の特急などの運行はズタズタになっていたが、ローカルな普通列車などは普段の通りに動いていた。何はともあれ無事長野電鉄は片付いたが、一体何をしに長野まで来たのか、、、いやいや、仕事をしにきたはずだ。それもまだ1件も片付いていない。ということで、篠ノ井線で松本まで移動する。松本を経由して飯田線へ直通する快速列車が次にやってくるので、ちょっと早いが昼飯を買込んで乗ることにした。姥捨の景色の風景が車窓に広がるころには風雨のピークは通過ぎていた。予定通り、お昼をちょっとまわったところで松本駅に到着した。拠点は分かりづらいところにあるので、もし見つからなかったら連絡をくれと聞いていた。まぁ見つかるだろうと思っていたが、やはり少々分かりづらいところにあった。予定通り仕事に取り掛かることにする。一通り流して引き上げようとしたとこと、別のところとダブルヘッダーで会議を予定していたということを聞いた。もちろんそちらは松本まで到着することはできなかったようだ。
今日はここにとどまって明日松本を発つ予定だった。その間に松本電鉄に乗っておこうと考えていたが、今日はあまりにも順調に終わってしまったので、日が沈む前に往復しに行くことにした。松本駅の端のホームには青ガエルが入線していた。まだ現役だったのかと思いながら、懐かしさをじわじわと感じていた。さすがに車内などの古さは隠し切れない。走りもちょっとぎこちないところがある。引退はそう先のことでもなさそうだと直感的に思った。(後日談:やはり、その後ほどなくしてハッピーリタイヤとなりました。)夕日に照らされたご老体に揺られ松本駅に戻ってきた。今朝、台風にびくびくしていたのが本当にウソのようだ。駅ビルの中に入ると、どこからか相撲中継のアナウンスが聞こえてきた。
長野駅へ入ってみてJRの運行状況を確認する。長野近辺の在来線はごくごく普段通り動いてる感じはした。こんな状況だが、長野電鉄で昨日の乗り残してあったところがどんなものか様子を見てみたくなる。こちらも平常通りとのことなので、えいやぁ的に湯田中往復を試みる。ちょうど特急が出るところだったので、そいつで往復することにした。地上の交通事情に配慮するためかどうか分からないが、長電の長野駅は地下にあり、2つ、3つ先の駅までは地下鉄のような感じだ。そんな中、旧営団車が行き来するのは、何の因果だろうか。長野駅にずらっとならんだ"まっこうくじら"は往年の姿を彷彿させる。だが、特急列車には違う車種が当たっている。定刻通り長野駅を発車し、地上に出てみるとやっぱり雨はしっかりと降っていた。途中信濃川にかかった橋を渡る。ところどころ激流の様相を見せている。雲が風に激しく流されているので、もしかしたら天気は急速に回復するかもしれない。時折激しく打ちうける雨の中、列車は遅れることなく先へ進んでいった。信州中野で昨日向かった木島線と分かれ湯田中へ向う。急に勾配がきつくなった感じがした。普段は小川のようなところでも水の流れを集めて溢れ返っている。終点の湯田中に到着した。と、思ったらスイッチバックしてホームに入る。ここも勾配がきついようだ。一旦改札の外に出てみると、折り返し上りになる便を待ってる客で駅は賑わっていた。一応これで乗り終えたことになるが、動いてるうちに戻ることにしよう。(後日談:その後、長野電鉄に再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
予想通りと言っていいのか、天気は急速に回復してきた。時折薄日も差している。東京を発ってないのだから長距離の特急などの運行はズタズタになっていたが、ローカルな普通列車などは普段の通りに動いていた。何はともあれ無事長野電鉄は片付いたが、一体何をしに長野まで来たのか、、、いやいや、仕事をしにきたはずだ。それもまだ1件も片付いていない。ということで、篠ノ井線で松本まで移動する。松本を経由して飯田線へ直通する快速列車が次にやってくるので、ちょっと早いが昼飯を買込んで乗ることにした。姥捨の景色の風景が車窓に広がるころには風雨のピークは通過ぎていた。予定通り、お昼をちょっとまわったところで松本駅に到着した。拠点は分かりづらいところにあるので、もし見つからなかったら連絡をくれと聞いていた。まぁ見つかるだろうと思っていたが、やはり少々分かりづらいところにあった。予定通り仕事に取り掛かることにする。一通り流して引き上げようとしたとこと、別のところとダブルヘッダーで会議を予定していたということを聞いた。もちろんそちらは松本まで到着することはできなかったようだ。
今日はここにとどまって明日松本を発つ予定だった。その間に松本電鉄に乗っておこうと考えていたが、今日はあまりにも順調に終わってしまったので、日が沈む前に往復しに行くことにした。松本駅の端のホームには青ガエルが入線していた。まだ現役だったのかと思いながら、懐かしさをじわじわと感じていた。さすがに車内などの古さは隠し切れない。走りもちょっとぎこちないところがある。引退はそう先のことでもなさそうだと直感的に思った。(後日談:やはり、その後ほどなくしてハッピーリタイヤとなりました。)夕日に照らされたご老体に揺られ松本駅に戻ってきた。今朝、台風にびくびくしていたのが本当にウソのようだ。駅ビルの中に入ると、どこからか相撲中継のアナウンスが聞こえてきた。
3日目
今日の始動時間はあまり早くない。大糸線で日本海側まで出て金沢でひと仕事の予定である。安曇野の風景を車窓に見ながら北上していく。通勤通学時間のピークも越えてしまっていたので、車内は空いていた。この辺はしばらくのんびりできてよい。県境の関係なのであろうか、南小谷からJR西日本になり名物のキハ単行を待つことになる。扉を手で開け車内に入る。よくもまぁこんなものを今でも使い続けているもんだと、いい意味で感心してしまう。(後日談:その後、キハ52は引退しました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)ここから糸魚川までは姫川沿いに進む。あの大災害の傷跡を思わせる箇所がいくつもあった。路盤ごと流されてしまったところは丸っきり新しく盛り土してあって、尋常でない被害だったことが感じとれる。
北陸本線のダイヤは数分程度遅れていたようで、出てしまったはずの特急がまだ来ていない。まぁ、ここからは"特急銀座"なのであまり気にはしていない。すぐに入ってきた金沢行きの特急に乗り換える。押し寿司が目に止まったので車内で購入しすぐに食べることにした。この辺はトンネルが少ないので、すぐさまダイヤルアップで会社のメールをチェックしておくことにした。特にフォローするようなものはなかったが、1人だけにはそっと押し寿司を食べていることを実況中継Replyしておいた。ふふふ、ざまぁみろ!(謎)
金沢駅から拠点までちょっと距離がある。繁華街に近いといった方がいいだろうか。1度来たことがあるので、迷うことはなかった。ここにも顔を知らないお馴染みさんという人が何人かいるので、不思議な挨拶をすることになる。まともな部屋が取れなかったとのことで奥まったところでひと通りのいつものコースをこなす。終わったのは夕方近かったので、金沢は素通りにして、今日のうちに福井まで移動しておく。
北陸本線のダイヤは数分程度遅れていたようで、出てしまったはずの特急がまだ来ていない。まぁ、ここからは"特急銀座"なのであまり気にはしていない。すぐに入ってきた金沢行きの特急に乗り換える。押し寿司が目に止まったので車内で購入しすぐに食べることにした。この辺はトンネルが少ないので、すぐさまダイヤルアップで会社のメールをチェックしておくことにした。特にフォローするようなものはなかったが、1人だけにはそっと押し寿司を食べていることを実況中継Replyしておいた。ふふふ、ざまぁみろ!(謎)
金沢駅から拠点までちょっと距離がある。繁華街に近いといった方がいいだろうか。1度来たことがあるので、迷うことはなかった。ここにも顔を知らないお馴染みさんという人が何人かいるので、不思議な挨拶をすることになる。まともな部屋が取れなかったとのことで奥まったところでひと通りのいつものコースをこなす。終わったのは夕方近かったので、金沢は素通りにして、今日のうちに福井まで移動しておく。
4日目
一連の全国行脚は販売拠点をまわることが目的なのだが、今日の訪問先は営業拠点ではなく工場である。工場といってもクリーンルームの中に精密機械が並んでるだけなので、別に油まめれになってるようなことはまったくない。近くを通るなら寄ってくださいと工場から呼ばれたので拒む理由もなくついでに寄らせてもらうことにした。福井へは以前来たことがあったが、いろいろ密に話をしたいところではあったのでちょうど声を掛けてもらってありがたかったが、残念ながら明日を語るにはToo lateの立場になってしまった。何を言っても仕方のないことなので気を取り直して、先方のお役に立てることがあるのなら置き土産替わりに話をしておくことにした。
アポが取れたのが午後一だったので、実は午前中が空いていた。この時間を利用して京福線をいくつか乗っておこうと考えていた。午前中で動ける範囲ということで、越前本線で勝山まで往復することにした。これまで福井には何度か立ち寄ったことがあったが、京福に乗るのは今回がはじめてだ。(後日談:この頃は京福と呼ばれてましたが、、、)JRの駅の南側が京福の駅になっている。三国方面も途中まで同じ線路を使っている。何と表現していいか分からないが、古いとか新しいとかではなく華のようなものがあまり感じられない。福井を出てしばらくすると、三国方面と別れ単線になる。線路の継ぎ目が短く、左右交互に継がれたところもあって、カタコトカタコト落ち着かないリズムを響かせていた。比較的頻繁に上下交換も行われている。東古市から永平寺方面へ支線が出ているが、かつてはもっと枝線があったという。終点の勝山は何もない古い駅だった。1本落として福井駅へ戻ることにする。
福井の工場への足はタクシー以外にない。一応最寄駅は芦原温泉駅ということになっているので、福井駅から芦原温泉駅まで移動する。福井駅で食べたおろしそばが意外と尾を引いていた。芦原温泉駅からいわゆる温泉郷までは距離があり、バスを利用しなければならない。駅構内は"芦原音頭"とやらのテープが繰返し流されていた。微妙に怪しい。駅前でタクシーを拾う。そういえば前回来たときは恐ろしいほどぶっ飛ばす運転手にあたったことを思い出していた。みぞれ混じりだというのに、田んぼの中の細い道を100キロ近く出していたのは正直いって恐かった。とりたててきっちりスケジュールは組まれてなかったが、今日はじっくりといろんな話をすることにしていた。
折角いい雰囲気になれたのに、はい、これでさようなら…というのは実に忍びない。まぁ不可抗力だからと思ってそこは割り切る。とりあえず仕事のノルマはすべてやり遂げた。台風で出端をくじかれたが、前乗りで乗切りめげずに無事こなすことができてよかった。行きがタクシーなら帰りも当然タクシーになる。行先を京福の芦原湯の町駅にしておけばよかったなと、芦原温泉駅まで近くまで来て気がつく。まだ日が暮れるまでには時間があったので、バスで湯の町駅へ向かうことにした。結構バスの本数はあるのだが、経由地がいろいろあり、どれが最短なのかよく分からない。急ぐわけでもないのでとりあえず来たバスに乗る。途中雨が降出してきて、湯の町駅へ着いたときにはしっかりとした雨になっていた。ここから一旦三国港に向かう。明日、東尋坊に行こうと考えていたので、三国港駅ではほとんど何もせずに折り返すことにする。京福は車両もそうだが、駅も古いものばかりのように思えた。折り返しの待ち時間に、運転手が外へ出て近所のおばちゃんと何か話をしている。しかし、方言が強く何を言ってるかよく分からない。福井に近づくにつれ、帰りの便は通学の高校生で満員になっていた。
アポが取れたのが午後一だったので、実は午前中が空いていた。この時間を利用して京福線をいくつか乗っておこうと考えていた。午前中で動ける範囲ということで、越前本線で勝山まで往復することにした。これまで福井には何度か立ち寄ったことがあったが、京福に乗るのは今回がはじめてだ。(後日談:この頃は京福と呼ばれてましたが、、、)JRの駅の南側が京福の駅になっている。三国方面も途中まで同じ線路を使っている。何と表現していいか分からないが、古いとか新しいとかではなく華のようなものがあまり感じられない。福井を出てしばらくすると、三国方面と別れ単線になる。線路の継ぎ目が短く、左右交互に継がれたところもあって、カタコトカタコト落ち着かないリズムを響かせていた。比較的頻繁に上下交換も行われている。東古市から永平寺方面へ支線が出ているが、かつてはもっと枝線があったという。終点の勝山は何もない古い駅だった。1本落として福井駅へ戻ることにする。
福井の工場への足はタクシー以外にない。一応最寄駅は芦原温泉駅ということになっているので、福井駅から芦原温泉駅まで移動する。福井駅で食べたおろしそばが意外と尾を引いていた。芦原温泉駅からいわゆる温泉郷までは距離があり、バスを利用しなければならない。駅構内は"芦原音頭"とやらのテープが繰返し流されていた。微妙に怪しい。駅前でタクシーを拾う。そういえば前回来たときは恐ろしいほどぶっ飛ばす運転手にあたったことを思い出していた。みぞれ混じりだというのに、田んぼの中の細い道を100キロ近く出していたのは正直いって恐かった。とりたててきっちりスケジュールは組まれてなかったが、今日はじっくりといろんな話をすることにしていた。
折角いい雰囲気になれたのに、はい、これでさようなら…というのは実に忍びない。まぁ不可抗力だからと思ってそこは割り切る。とりあえず仕事のノルマはすべてやり遂げた。台風で出端をくじかれたが、前乗りで乗切りめげずに無事こなすことができてよかった。行きがタクシーなら帰りも当然タクシーになる。行先を京福の芦原湯の町駅にしておけばよかったなと、芦原温泉駅まで近くまで来て気がつく。まだ日が暮れるまでには時間があったので、バスで湯の町駅へ向かうことにした。結構バスの本数はあるのだが、経由地がいろいろあり、どれが最短なのかよく分からない。急ぐわけでもないのでとりあえず来たバスに乗る。途中雨が降出してきて、湯の町駅へ着いたときにはしっかりとした雨になっていた。ここから一旦三国港に向かう。明日、東尋坊に行こうと考えていたので、三国港駅ではほとんど何もせずに折り返すことにする。京福は車両もそうだが、駅も古いものばかりのように思えた。折り返しの待ち時間に、運転手が外へ出て近所のおばちゃんと何か話をしている。しかし、方言が強く何を言ってるかよく分からない。福井に近づくにつれ、帰りの便は通学の高校生で満員になっていた。
5日目
今回は、もう少し粘って何ヶ所かまわってみることを考えていた。今日のスケジュールは真ん中へんがクリティカルパスだったので、無理して早起きする必要はなかったのだが、いつものようにムクムクっとつい起きだしていた。福井駅まで来てしまったが、実はこの駅にはヒマを潰せるようなところがほとんどない。時刻表と相談して敦賀をとんぼ返りしながら車内で朝食をとることにした。昨日の雨は上がって、朝日が妙にまぶしい。福井駅まで舞い戻り、京福に乗り換える。しばらくは昨日通ったばかりなので見覚えのある風景が続く。東古市で永平寺方面に乗り換える。より一層年季の入った車が数少ない乗り換え客を待っていた。ガガァーという吊り掛け音を轟かせながらゆっくり加速していく。車窓はよりひと気ないところへと移り変わっていった。次の駅で止まろうとすると、ガ、ガ、ガッ、ズルズル…といった感じでオーバーランしてしまった。面倒くさく思ったのか、列車が静止するのを待たずに運転手はノッチを入れ始めた。降ります!と声があがり、ガクンと衝撃がきて急停車した。まったくアバウトな運転である。(後日談:これを読んでる方なら誰しもがお気づきだと思いますが、その後残念な事故を起こしてしまったまさにその車両に乗り合わせていたようです。このときは荒っぽい運転だな…としか単純に思っていませんでしたが、既に運転手の手を相当煩わせていたのでしょうか。犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。)永平寺駅は山間にあり、静かで雰囲気のある駅だった。永平寺までは人が通る参道というのではなく、車がバンバン走っている道路が続いていた。大きな旅館には大型の観光バスが何台も付けてある。1日くらいかけて中を散策してもよかったが、入口のところまで来て引き返すことにした。永平寺駅と東尋坊の間を1日何本か直行するバスが出ているのでそいつを捕まえる。急行便なので途中のバス停をかなり省略している。東古市までは、電車と併用して人を運ぶダイヤになっているようだ。(余談:既に永平寺線を廃止するための布石の意味もあったのでしょうか?)単なる田舎の街並みというのも雰囲気が違い、途中立派なお屋敷もいくつか見られた。北陸線の線路をくぐり、芦原温泉駅を経由する。ここでどっと人が乗り込んできた。芦原湯の町駅も経由していくのだが、昨日と全然違うルートなのでどこを通っているのかさっぱり分からなかった。東尋坊にバスが到着すると、近くのお店からぱぁっと店員が寄ってきて荷物無料で預かります、と声を掛けてきた。もちろん、お土産の購入や食事をしてもらうことが目的であろう。遠慮するはずもなく、とりあえず身軽になるために荷物はすべて預けることにした。展望台に登ってもいいし、湾内をぐるっとまわる遊覧船に乗ってもよかったが、特に何をするわけでもなくそこらを見てまわることにした。土産屋が立ち並ぶお寺の参道のようなところを抜け、崖の近くまで出てきた。テレビなどで見る通りの景色だった。結局、手荷物を預けたところと違うお店でお昼ご飯にして、再びバスで芦原温泉駅へ向かうことにする。今回もバスの経由するルートは違っていた。
今日は富山まで出る予定でいたが、1ヶ所くらいはどこか立ち寄れる。これまで北陸近辺は計画的にまわったことがなかったので、意外とマークが甘く(?)飛び飛びで未乗区間が残っていた。(後日談:いつかまとめてやっつけたいと思っていたが、そうこうしてるうちにのと鉄道の輪島線が廃止されてしまいました。残念。)あまり深くは考えていなかったので、北陸鉄道の浅野川線を往復しておくことにした。ここでも学生時代お世話になっていた旧井の頭線の車両であることがすぐに分かった。このようにセカンドユースとして地方に払い下げられることは多いが、中でも18メートル車は貴重で引っ張りダコだと聞いたことがある。往復とも係員が同乗して、旅客数の調査を行っていた。自分も1人分だけであったが、もしかしたら何か貢献していたのであろうか?
さすがに疲労を感じてきていたので、富山の宿には早めに入り次回のスケジュールを練ることにしていた。何気なく鏡を見たら左眼の白目の部分の片側が真っ赤になっている。え、何これ??充血とかいうレベルではなく、思わず声を上げてしまった。痛いとか視界がおかしいとか自覚症状はまったくないのだが、とりあえずおとなしく寝ることにした。
今日は富山まで出る予定でいたが、1ヶ所くらいはどこか立ち寄れる。これまで北陸近辺は計画的にまわったことがなかったので、意外とマークが甘く(?)飛び飛びで未乗区間が残っていた。(後日談:いつかまとめてやっつけたいと思っていたが、そうこうしてるうちにのと鉄道の輪島線が廃止されてしまいました。残念。)あまり深くは考えていなかったので、北陸鉄道の浅野川線を往復しておくことにした。ここでも学生時代お世話になっていた旧井の頭線の車両であることがすぐに分かった。このようにセカンドユースとして地方に払い下げられることは多いが、中でも18メートル車は貴重で引っ張りダコだと聞いたことがある。往復とも係員が同乗して、旅客数の調査を行っていた。自分も1人分だけであったが、もしかしたら何か貢献していたのであろうか?
さすがに疲労を感じてきていたので、富山の宿には早めに入り次回のスケジュールを練ることにしていた。何気なく鏡を見たら左眼の白目の部分の片側が真っ赤になっている。え、何これ??充血とかいうレベルではなく、思わず声を上げてしまった。痛いとか視界がおかしいとか自覚症状はまったくないのだが、とりあえずおとなしく寝ることにした。
6日目
朝起きて鏡を覗き込んでみると、左眼は真っ赤のままだった。自覚症状はまったくない。今日は日曜日なので仕方ない明日にでも眼医者に行こうと思う。(後日談:翌日眼科医に見てもらったところによると、毛細血管が切れて血があふれて行き場を失うとこのようなことが起きるとのことでした。人によってはよくあることだそうですが、1~2週間もすれば自ずと引いてくるので何も心配することはないと言われました。)
北陸から帰京するのはとても不便だが、裏を返せばいろいろなルートが考えられるとも言える。そこはいい方に解釈することにして、久しぶりに高山線を利用することにした。朝のちょうどいい時間に特急があるので、そいつを捕まえることにする。JR東海お得意のワイドビュー車両の元祖のようなものだが、これまで乗ったことがなかったこともあり景色を楽しませてもらうことにした。富山から名古屋まで乗り通す人はまずいないだろう、と思いつつも3両編成で富山を発つ。予想通り車内はガラガラだった。高山線からの車窓の眺め、特に渓谷美は自分のお気に入りの中でも上位に入る。ゆったりとした気分でこうしていられるのは至高のときとでもいうべきか。こうべを垂れはじめた稲穂は黄色に色付き始め風に揺られていた。日本各地で田んぼの風景は見られるが、ここ富山は米どころでもある。これから実りの時期にかけてまさに黄金色のじゅうたんとなる。米の取れ高で財力を測るというのはなんとも日本的な考え方であるが、世の殿様方は一面黄金となった光景を見て何を感じていたのだろうか?自分もこの時期の田園風景を眺めるのがとても好きである。
ワイドビューを岐阜で途中下車して名古屋と逆の方向へ寄り道していくことにしていた。大垣から樽見鉄道を往復する。ここも第三セクターへの転換路線だが、業績的にも比較的奮闘している路線だと聞いたことがある。貨物輸送の需要があることから、旅客運輸にも投資することができ、転換後路線が伸張されたという珍しい路線である。短い距離をレールバスが行き来するだけの路線ではあるが、なかなか景色のいいところを通る。川べりに人が集まっていたり、断層を観光地としてみたり、人が集まってくる要素がいくつか感じられた。終点樽見まで乗り通しそのまま折り返してくる。なかなか印象のいい路線であったが、帰り道に高校施が料金箱を取り囲んで中から千円札を抜き取ってる様子をみてしまい、一気に印象の悪い路線として記憶に残ることになってしまった。大垣からは名古屋まで普通列車で移動する。
名古屋へはすぐにまた来なければならないので今日は素通りして帰ることにしていた。途中に台風を経験するなど、波乱が多い旅であった。1、2本ひかりの様子を見てから決めようと思っていたが、予想通り自由席は座席が埋まっていたのでこだまで行くことにした。時間はかかるが確実に座れるし、たまにはこれもよかろうと思っていた。豊橋までは本当にガラガラだったが、浜松、静岡と停車するたびに客の数は増え、三島あたりですでに座席は埋まってしまった。これくらいの距離での需要も結構あることが分かった。三島から隣に座った人はとても難しい顔をして何かに目を通していた。何となく見えたのだが、縦書きの資料であった。中まで覗きこむのは止めようと思った。そんなもの、新幹線の中で読まないで欲しいな、、、
北陸から帰京するのはとても不便だが、裏を返せばいろいろなルートが考えられるとも言える。そこはいい方に解釈することにして、久しぶりに高山線を利用することにした。朝のちょうどいい時間に特急があるので、そいつを捕まえることにする。JR東海お得意のワイドビュー車両の元祖のようなものだが、これまで乗ったことがなかったこともあり景色を楽しませてもらうことにした。富山から名古屋まで乗り通す人はまずいないだろう、と思いつつも3両編成で富山を発つ。予想通り車内はガラガラだった。高山線からの車窓の眺め、特に渓谷美は自分のお気に入りの中でも上位に入る。ゆったりとした気分でこうしていられるのは至高のときとでもいうべきか。こうべを垂れはじめた稲穂は黄色に色付き始め風に揺られていた。日本各地で田んぼの風景は見られるが、ここ富山は米どころでもある。これから実りの時期にかけてまさに黄金色のじゅうたんとなる。米の取れ高で財力を測るというのはなんとも日本的な考え方であるが、世の殿様方は一面黄金となった光景を見て何を感じていたのだろうか?自分もこの時期の田園風景を眺めるのがとても好きである。
ワイドビューを岐阜で途中下車して名古屋と逆の方向へ寄り道していくことにしていた。大垣から樽見鉄道を往復する。ここも第三セクターへの転換路線だが、業績的にも比較的奮闘している路線だと聞いたことがある。貨物輸送の需要があることから、旅客運輸にも投資することができ、転換後路線が伸張されたという珍しい路線である。短い距離をレールバスが行き来するだけの路線ではあるが、なかなか景色のいいところを通る。川べりに人が集まっていたり、断層を観光地としてみたり、人が集まってくる要素がいくつか感じられた。終点樽見まで乗り通しそのまま折り返してくる。なかなか印象のいい路線であったが、帰り道に高校施が料金箱を取り囲んで中から千円札を抜き取ってる様子をみてしまい、一気に印象の悪い路線として記憶に残ることになってしまった。大垣からは名古屋まで普通列車で移動する。
名古屋へはすぐにまた来なければならないので今日は素通りして帰ることにしていた。途中に台風を経験するなど、波乱が多い旅であった。1、2本ひかりの様子を見てから決めようと思っていたが、予想通り自由席は座席が埋まっていたのでこだまで行くことにした。時間はかかるが確実に座れるし、たまにはこれもよかろうと思っていた。豊橋までは本当にガラガラだったが、浜松、静岡と停車するたびに客の数は増え、三島あたりですでに座席は埋まってしまった。これくらいの距離での需要も結構あることが分かった。三島から隣に座った人はとても難しい顔をして何かに目を通していた。何となく見えたのだが、縦書きの資料であった。中まで覗きこむのは止めようと思った。そんなもの、新幹線の中で読まないで欲しいな、、、