■旅日誌
[1997/3] 新しきもの、古き去り行くもの
(記:2003/5/15 改:2009/11/29)
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ただ単純に、どこかお出掛けしたいな~と思っていて3月下旬を目標に考えていました。南部縦貫鉄道の廃止(休止)も取りざたされていたのでこの時期を逸してはいけない!と出発日を決めたところ、秋田新幹線の開業日にぶつかっていました。ということで、今回はひたすら北を目指すこととなりました。
 1日目
ルート概略
【寄ったところ、乗ったもの】※詳細はこちら
盛岡、山田線、宮古、釜石、釜石線、青森
自宅から一番近い私鉄の駅から始発に乗ってもうまくスケジュールが追いつかないような気がしていたので、どこか出られそうなJRの駅を探してみた。終電は早いくせになぜか4時台に始発が設定されているところに目をつけ、どうにか出られそうな駅を見つけ出すことができた。寝坊してはいけない!と気を張って寝入ることは早々に諦め、まだ薄くらい中、小雨に降られながらの出発となった。
始発電車から京浜東北線に乗り換えると、車内はどんよりとした空気に包まれていた。早朝にありがちな酩酊状態を引きづった人々もこの列車は多く運んでいた。前振りの通り秋田新幹線の開業日ということで、早朝だというのに東京駅は多くの人でざわついていた。自分としては何もこんな日を選んで出発するつもりはなかったのだが、都合がついたのがこの日だったのでまぁ流れに身をまかせることにする。そんなわけで、新幹線の改札の前の列は長くなる一方で、自分もその列に加わるしかない。列の隣に並んでいた人が何やらブツブツ言い続けている。そのうち妙に馴れなれしく話しかけてきた。どこで降りようかなどと聞いてくるので、冗談で「じゃぁ大宮で降りてもう一度並べば?」とからかい半分で答えておいた。ようやく出札が始まり、ホームで始発の入線を待つことになった。駅員が先導でもするのかな?と期待したが、そんなこともなく皆一斉に走り出した。自分はどうでもよかったのだが、流れに乗らないと邪魔になり、少々危険にも思えたので一応ダッシュすることにした。ホームの先頭車付近がセレモニーの会場になっており華やかに飾りつけがされていたが、間違ってTVに写ったりするのもイヤなので2両目の列に並ぶことにする。秋田の地方TV局からも取材が来ており、女性キャスターがマイクを持って積極的にインタビューにあたっている。それとなく背を向けたりして聞いていたが、直前に並んでたおじいさんが緊張した面持ちでインタビューを受けていた。妙に偉そうな小柄な人物がお付の人を従えて近くを通り過ぎていった。金バッチを付けていたところをみると運輸大臣(後日談:当時は運輸省…だったかな?)らしいが名前が出てこない。(笑) TVを通じてではなく生でそんな光景を目にすることができたが、とてもおめでたいことなんだなと実感できた。お目当ての1番列車がホームに滑り込み中に入ろうとすると、入口のところにお姉さんが立っており記念のボールペンを配っていた。車内は新車の独特の香りが漂っている。何となくセレモニーが見えそうな席に座り、しばらくそちらを眺めていた。
祝賀ムードの中、一番列車は定刻に東京駅を発つ。秋田の地方局は2局が現場取材してたらしく、他局ながらTVキャスター同士が談笑していた。その後もスタッフを引き連れて忙しそうに車内を行き来していた。山形新幹線よりもモータ音は静かなように感じたが、力強くグングンと加速していく。駅で停車するたびに待機していたTV中継の取材が入り、仙台付近からはヘリコプターまで併走する程でそれなりに注目度があるようだった。そういえば、東京駅で馴れなれしく話かけてた人の姿が大宮駅で確認できたので、本当に東京に戻ったらしい。という自分も、秋田新幹線がお目当てではなかったので盛岡でこまちを降りてしまう。今日はあまり目標のようなものがなかったので、このまま秋田に向かってもよかったかな?と降りてから思った。
あらためて気持ちを切替えて…というわけでもないが、ここから未乗区間に足を踏み入れることにしていた。山田線と釜石線を経由してくるっとまわってくることにしている。途中に岩泉線という存在があるのだが、スケジュールに組み入れるにはきつ過ぎるので今回は見送ることにしていた。ここを制覇するのはとても難しいだろうなとあらためて感じてしまった。山田線も決して捕まえやすいというものではなく、早く盛岡に着きすぎてしまってはいるがとりあえず気長に待つことにした。秋田新幹線の開通ということもあってか、駅前では何かイベントをやっている。しばらく見ていたがあまり面白くないので、駅弁選びにまわった。ここ盛岡は知る人ぞ知る駅弁激戦区で、そう思って見比べるだけでも楽しいかもしれない。無事食料も調達できたので、薄暗い山田線のホームでさらに待つことにした。向かいは東北本線の貨物列車が時間調整か何かで止まっている。そのうちガタンと大きな音を立ててするすると動き出した。ようやく折り返しの便が入ってきた、と思ったらここで車庫に引き上げてしまう。それに気付かず何人も車内に乗り込んでしまったが、すべて追い出された。空気の流れがないようで、キハがエンジンを吹かすたびにあたりに煙が充満する。ただ薄暗いだけではなく、煤けてしまって余計暗く感じる。そうこうして、ようやく宮古行きがやって来た。
盛岡を出て右に折れるとやがて街並みも寂しくなり、気がつけば山間の風景の中を走っていた。最初は多くの乗客を乗せて盛岡を出たが、駅に停まるたびに降りてくばかりで人は少なくなってきた。適当な時間で弁当を開き、車窓をおかずに舌鼓を打つことにする。大げさではあるが、小さな幸せを感じる瞬間でもある。先に進むにつれ、外はますます寂しくなってきてローカル線に乗っていることが十分に実感できる。茂市で岩泉線との分岐を確認し、やがて開けてきたかなと思うと宮古へ到着するところだった。それとなく港が近いことが感じとれる。
帰り道で三陸鉄道を経由するつもりでいたので釜石までの区間はダブって乗ることになるが、今日は釜石線もあわせて回っておきたかったので乗り継ぎのいいタイミングを狙ってぐるっと回ることにしていた。もっと海沿いを走るのかなと思っていたが、そうでもない。路盤があまりよくないようで乗り心地も決していい方とはいえない。やがて釜石へ到着し釜石線の急行に乗り換える。遠くの建物からも、鉄の町"だった"ということがどことなくわかる。残念ながら活気のようなものは伝わってこない。昨今の状況を考えれば無理もないか…。
盛岡行きの急行は車両も新しいだけあって、軽快な走りをしていた。はるか向こう側にまるで別の路線のように線路が見え、これが名物の大回りだったということに気がつく。ちょっと驚いたのは、こんなローカルなところだというのに車販が同乗していたことで、思わず飲み物を買ってしまった。全国的にも珍しい存在になってしまったが「急行」という名の優等列車であることを誇示してるかのようにも思えた。遠野を過ぎたあたりからは山間というよりも田園風景が広がるようになり、花巻に近づくにつれ広大な田んぼに囲まれる景色に変わってきた。新幹線と交差し、やがて花巻へ到着することになる。ここで進行方向がかわり、本線上を思いっきりかっとばし今日2度目の盛岡入りとなった。明日は青森あたりを右へ行ったり左へ行ったりする予定でいるため、今日のうちに青森入りしておくことにする。はつかりで夕暮れを迎え青森に到着することはすっかりと夜になっていた。
 2日目
ルート概略
【寄ったところ、乗ったもの】※詳細はこちら
野辺地、南部縦貫鉄道、七戸、青森、弘前、五能線、五所川原、津軽鉄道、津軽中里、弘前、青森、八戸
今日は、今回のメインイベント(?)でもある南部縦貫鉄道行きを決行することになる。そんな大げさなものでもないが、ずーーっと昔から1度は乗りに来ておきたかったところではあったのだが、とうとう廃止が間近に押し迫ってからの来訪になってしまった。厳密にいうと「廃止」ではなく、あくまでも「休止」とのことらしいのだが、一旦営業がとまってしまえば簡単に再開できないことは容易に想像がつく。ウルトラCとして、七戸あたりに新幹線の駅を誘致してそこに乗り入れるという案もあったと聞くが、夢物語だとしてもあまりにも虚しく思えてくる。ともかく、最後の最後ではあったがここまで乗りに来ることができたので、記憶に留めておきたい。
青森から朝一のはつかりで野辺地入りする。予想はしていたが物見の人の数は相当なもので、今度の七戸行きの便に乗るために並んでおかなければならない。物理的なキャパシティがあるので、あまりにも人が多いと積み残しが出してしまうということは聞いていたが、本当にこれは危なさそうだ。跨線橋の先が南部縦貫鉄道の乗り場になるのだが、橋の上は待ち人で溢れかえっている。最初は人が多くてざわついてやだなと思っていたが、ここまで来て寸でのところで乗れなくなってしまう心配をしなければならないのも予想外のことだった。やがて出札が始まり、みな一斉に切符売り場の窓口を目指す。それでもどうにか切符を買い求めることができたので、どうやらこれで七戸行きに乗れる権利は手にできたようである。(ホッ)
う~ん、これは!!と思われる程の年季もののレールバスが既に駅には待機していた。1両だけで後ろに下がったり何やらで入替えのようなことを行っていた。相当な数の「マニア」がレンズを向けシャッターを切っていた。自分は写真を撮るわけでもないので、乗り口と思われるところにただ並んでいるだけだった。すると向こうからもう1両こちらにやってくるではないか。どうもこいつが折り返しの七戸行きになるようだ。少しばかりの人を降ろすと、狭い車内に一斉に乗り込んですぐに満員になった。これ以上はやばい、という判断が下ると「乗車拒否」があるとのことだったが、どうにか運び切れる人の数ではあったようだ。運転席が見えるところに陣取り眺めてみると、本当に"レールバス"っといった感じがする。足元にはクラッチのようなものがあり、脇には大きな変速ギア棒が何しろ特に異彩をはなっている。エンジンのアイドリング音も非力さを思わせる。決して若くはない運転手が席につくと、すぐ袖にいた子供に、本当に揺れるから気をつけなさい…みたいなことを話かけている。
スルスルっと動き出した感じだったが、すぐに揺れが大きくなりやがて激しさを増す。ガン・ガン・ガンと時折突き上げも混じり、なおもレールバスは加速していく。とても不思議な乗り心地で、いいとか悪いとかで片付けてはいけないと思った。運転手の動きを監察してみると、左手のレバーがアクセルでマニュアル自動車のようにクラッチを切りながら高いギアへ入れ替えていた。停まるときもそうで、器用な操作を行って停止させていた。バスの部品を使った小振りの気動車を単にレールバスと思っていたが、これぞ正真正銘のレールバスなんだなと確信した。沿線でもあちこちで多くの人間がレンズをこちらへ向けており、ある意味異様な光景だ。もっと静かなときにそっと訪れたかった。
終点の七戸でも多くの人でごった返しており、野辺地からの到着便を待ち構えていたようだ。気がつくと、すぐ後ろをもう1両のレールバスが同じ筋を使って追いかけてきていた。もっとも同じ筋と言っても、1日あたりの運転本数にしたって数えるばかりで、同じ車両が行ったり来たりしているのでその辺はアバウトなわけだが、単に2両連結するのとは微妙に違う。お祭りの賑わいのような人の群れをかき分け、すぐに帰りの切符を確保しなければならない。帰りはもっといい立ち位置を狙うことにした。今度先に出るのは先程後ろから追いかけてきたやつになる。幸いにも "かぶりつき"に都合のいい場所を確保することができた。(後日談:行き帰り同じ運転手でしたが、その後TVとか何かの紹介ビデオなど頻繁にインタビューなど出てらっしゃる方だと分かりました。)
レールバスの旅を十二分に堪能し、野辺地から東北本線の普通列車で青森へ戻る。つい最近まで客車の普通列車が幅をきかせてたことを考えると、軽快な走りは雲泥の差だ。ただ、なんとも味気ないなぁというか、あのレールバスとのギャップを考えると何かとても不思議な気分になった。ふたたび青森駅に戻り、こんどは津軽方面へ遠征しに行くことにしていた。弘前で五能線に乗り継ぎ、さらにもう少し先へ入った五所川原が津軽鉄道の起点となる。沿線には観光的に有名な場所が多くあり、ゆっくりと訪ねたいところでもあったがさすがに時間が限られていたのでやむなく往復だけすることにした。なかなかここまで足を延ばす機会もないので残念に思うが、そこは割り切ることにする。津軽平野の中をひたすら北へ進み、終点の津軽中里ですぐに折り返すことにしていた。もうこの時期なので最初っからストーブ列車の運行は期待していなかったが、1本落とした次で運用に当たっていることが分かりそいつに照準を合わせることにした。やがてディーゼル機関車に牽引され入線してきた。機関車を機回しして折り返しに備える。何かとても堂々としたものを感じる。早速中に入ると、どこか写真で見がことのあるような光景そのものだった。出発前に、車掌が車内を回って石炭を補充している。石炭ストーブのパワーは想像以上で、真冬ではない時期ということもあり車内の温度は相当高いように感じた。客車にゆっさらゆっさら揺られ、遠く岩木山を見ながら五所川原まで戻ってきた。
今日は行ったり来たりだが、青森を通って八戸へ向かう。結局は普通列車ばかりの乗り継がなければならないのだが、2両編成のロングシート車に押し込めらてしまうと、雰囲気は都会のラッシュそのものだ。日も沈みかけあたりは暗闇に包まれてきて外も見えないので、なおさらそんなふうに感じてしまった。
 3日目
ルート概略
【寄ったところ、乗ったもの】※詳細はこちら
本八戸、八戸線、久慈、三陸鉄道北リアス線、釜石、三陸鉄道南リアス線、盛、大船渡線、一関
あたらしい新幹線の開通ありの、歴史を閉じようとしてるものありの、2日とも中身の濃いものが多かったせいか今日はついでのような感じもする。とりあえずは、来づらいところを狙って帰京することにしていた。折角ここまで足を延ばしたのでそこは十分に考慮しておきたい。八戸の繁華街にある宿を出て本八戸からの出発となる。朝の通勤登校時間帯だけあって上りも下りも満員だった。今日は東北本線へ抜けるのではなく、逆へ向かい三陸鉄道に乗りに行くつもりでいる。この満員の乗客もおそらく鮫駅あたりで降りてしまうだろうと思っていたら予想通り車内は閑散としてしまった。1両に3~4人くらいしか乗っていないのだが、これ程分かりやすいとは思わなかった。陽は東側から差し込んでおり、時折見え隠れする太平洋はキラキラと輝いていた。小学校で習ったようにリアス式海岸は入り組んでいるためずーっと海岸沿いが続くというわけでもないが、それでも青々とした海原がとても印象的だった。南北を1本の路線で結ばれることはこの地の悲願であったように想像できるが、開通と引換えに経営母体は地元を巻き込んだ第三セクターに引継がれている。それも真ん中だけ残ったところがJRとして運行されているのだがとても不思議だ。ちょうど乗り合わせた便も、山田線へ乗り入れる形になっているのだが、北リアス線の区間では後ろ1両は締切り状態で前1両だけの旅客扱いだった。だが、JRの区間になると車掌が乗り込み2両フル運用となった。おととい見た風景の中をもう一度通過することになる。(後日談:その後、あらためて三陸鉄道へ再訪する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
盛駅で乗り換えとなるが、しばらく時間があったので外に出てみた。昔はもっと多くの路線で賑わっていたようだが、広い構内は何となく寂しい印象である。大船渡線で一関へ抜け、ここらの路線はほぼ完乗となる。おかしなことに、昨日ストーブ列車に乗って一気に春を感じてしまったが、今日も気温が上がっているようで大船渡線の車内はすっかり春を通り越していた。時間帯がよかったのか車内はとても混雑しており、同じボックスに座った人みな寝汗をかきながら眠りについていたようだった。
一関に到着し、あとは新幹線で東京まで駆け上がるだけとなる。先程の大船渡線もそうだったが意外と人が多く、気がつけば自由席を待つ列はとても長くなっていた。この感じだと盛岡始発のやまびこは混雑してそうだ。要領よく列の前の方に陣取っていたので窓際のいい席が確保できたが、一関を出るときには席はほぼ満席になっていた。2階席は眺めもよく、このまま東京に引き上げてしまうのもとても名残惜しく感じる。大宮の手前で日暮れを迎えたが、西の山々にちょうど夕日が沈む景色はとても見事だった。